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■ 個人的に「旬」な人物 (第2回/雪谷高校監督の巻)
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夏の甲子園が開幕した。
一番注目しているのは、東・東京代表の雪谷高校である。
なにせ、会社のある大田区の学校なのである。
そこで当メールマガジン編集長の(夏)に企画を提案した。
「今度のメルマガ、雪谷高校の相原監督にするね。ショットバーの経営
者だったという経歴がシビレルよね」
「あ、いいですね。WHOに登録されたばっかりだし、話題性もあります
よね」
「でさ、ついては、地元雪谷商店街の焼鳥屋かなんかで、常連客に相原
監督について取材したいんだけど、取材費出してくれる?会社にいたん
じゃイメージ湧かないんだよね、全然」
(言下に)「駄目です」
というワケで、サンデー毎日を買い、「無名の都立雪谷高を甲子園へ導
いた熱血監督の激動人生」という記事を現在読んでいるのである。
さて、相原監督(*1)のWHOデータは以下の通り、簡潔で短い。
これが、同じように無名の公立高校を甲子園に導いた池田高校の蔦監督(*2)
のような、ずっしりとした経歴になるかは、今後の雪谷ナインの活躍と監
督の指導によるのであろう。
頑張れ!雪谷高校。
*1 相原 健志(アイハラ,ケンジ)
高校野球監督(雪谷高)
日本体育大学卒
日体大時代は野球のクラブチーム・オール府中でプレー。卒業後、映
画監督を目指して渡米。のちショットバーを経営する傍ら、母校であ
る雪谷高の野球部コーチ、助監督を務め、平成7年監督。同年夏の東東
京大会4強に導く。一時チームを離れたが、13年復帰。15年5月に店を
閉め監督に専念。同年都立高校としては3校目の夏の甲子園出場を果た
す。
*2 蔦 文也(ツタ,フミヤ)
元・高校野球監督(池田高)
大正12年8月28日生 出生地:徳島県徳島市
平成13年4月28日没(77歳 肺がん) 没地:徳島県池田町の三好病院
同志社大学経済学部〔昭和21年〕卒
徳島商の稲原幸雄監督の下で昭和14年センバツに内野手、15年センバツ
と夏の甲子園に投手として出場。同志社大学時代は投手として関西六大
学の同志社黄金時代を築く。第二次大戦時は海軍特攻隊に入隊。戦後、
社会人野球・オール徳島、日鉄広畑(現・新日鉄広畑)などを経て、25年
プロ野球・東急フライヤーズ(現・日ハム)に入団するが、1年で退団。
26年池田高校社会科教諭となり、27年野球部監督に就任。就任20年目の
46年夏の甲子園に初出場。49年センバツでは僅か11人の部員で準優勝し、
"さわやかイレブン"旋風を巻き起こして注目を集めた。57年夏の甲子園
では畠山準(元横浜)、58年センバツでは水野雄仁(元巨人)の両エースを
軸に夏春連覇を達成。高校野球のイメージを変えた豪快なバッティング
で"山びこ打線"と呼ばれ、自らは"攻めだるま"の異名をとった。61年セ
ンバツでも優勝し、春夏を通じ甲子園出場は14回、優勝3回、準優勝2回、
戦績は37勝11敗。池田高校監督一筋、40年間務め、平成4年勇退した。
受賞歴 〔平成4年〕池田町名誉町民
(竜)
■ 個人的に「旬」な人物 (第2回/雪谷高校監督の巻)
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夏の甲子園が開幕した。
一番注目しているのは、東・東京代表の雪谷高校である。
なにせ、会社のある大田区の学校なのである。
そこで当メールマガジン編集長の(夏)に企画を提案した。
「今度のメルマガ、雪谷高校の相原監督にするね。ショットバーの経営
者だったという経歴がシビレルよね」
「あ、いいですね。WHOに登録されたばっかりだし、話題性もあります
よね」
「でさ、ついては、地元雪谷商店街の焼鳥屋かなんかで、常連客に相原
監督について取材したいんだけど、取材費出してくれる?会社にいたん
じゃイメージ湧かないんだよね、全然」
(言下に)「駄目です」
というワケで、サンデー毎日を買い、「無名の都立雪谷高を甲子園へ導
いた熱血監督の激動人生」という記事を現在読んでいるのである。
さて、相原監督(*1)のWHOデータは以下の通り、簡潔で短い。
これが、同じように無名の公立高校を甲子園に導いた池田高校の蔦監督(*2)
のような、ずっしりとした経歴になるかは、今後の雪谷ナインの活躍と監
督の指導によるのであろう。
頑張れ!雪谷高校。
*1 相原 健志(アイハラ,ケンジ)
高校野球監督(雪谷高)
日本体育大学卒
日体大時代は野球のクラブチーム・オール府中でプレー。卒業後、映
画監督を目指して渡米。のちショットバーを経営する傍ら、母校であ
る雪谷高の野球部コーチ、助監督を務め、平成7年監督。同年夏の東東
京大会4強に導く。一時チームを離れたが、13年復帰。15年5月に店を
閉め監督に専念。同年都立高校としては3校目の夏の甲子園出場を果た
す。
*2 蔦 文也(ツタ,フミヤ)
元・高校野球監督(池田高)
大正12年8月28日生 出生地:徳島県徳島市
平成13年4月28日没(77歳 肺がん) 没地:徳島県池田町の三好病院
同志社大学経済学部〔昭和21年〕卒
徳島商の稲原幸雄監督の下で昭和14年センバツに内野手、15年センバツ
と夏の甲子園に投手として出場。同志社大学時代は投手として関西六大
学の同志社黄金時代を築く。第二次大戦時は海軍特攻隊に入隊。戦後、
社会人野球・オール徳島、日鉄広畑(現・新日鉄広畑)などを経て、25年
プロ野球・東急フライヤーズ(現・日ハム)に入団するが、1年で退団。
26年池田高校社会科教諭となり、27年野球部監督に就任。就任20年目の
46年夏の甲子園に初出場。49年センバツでは僅か11人の部員で準優勝し、
"さわやかイレブン"旋風を巻き起こして注目を集めた。57年夏の甲子園
では畠山準(元横浜)、58年センバツでは水野雄仁(元巨人)の両エースを
軸に夏春連覇を達成。高校野球のイメージを変えた豪快なバッティング
で"山びこ打線"と呼ばれ、自らは"攻めだるま"の異名をとった。61年セ
ンバツでも優勝し、春夏を通じ甲子園出場は14回、優勝3回、準優勝2回、
戦績は37勝11敗。池田高校監督一筋、40年間務め、平成4年勇退した。
受賞歴 〔平成4年〕池田町名誉町民
(竜)
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